成都试管婴儿中心(漫画与科学)

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admin 3年前 (2022-10-17) 四川试管婴儿 15 0

作者:寺田寅彦

翻译:史提分麦基

时间:公元1921年

很难给漫画是什么的问题下一个明确的定义。 此外,在漫画和其他画作之间划出一条病房线并不容易。 漫画家本人可能对此有不同的发现,因人而异。 即使我在这里努力下定义,也不太可能是 A 的定义。 所以我下面讨论的漫画,毕竟只是我脑子里的漫画概念,不知道有没有普遍性。

我所谓的漫画主题的几乎所有东西都是人类或人性化的非人类。不管是猴子还是杵,当它被当成一只纯粹的猴子或杵来对待时,你似乎无法爬进卡通的领域。接下来,当我们考虑对象的视角和处理的特征时,我们将对象的形态或心理现象的一个特殊部分抽象出来,并对该部分进行夸大或夸大,突出的一点是它的表现。比如画一个大鼻子的人的鼻子,比正常测量尺寸的比例还大,或者用夸张的手势来表现喜悦的情绪,是最普通的,是惯用的手段。再往前走一点,有些可以有效地捕捉弯曲的鼻子和鼻子的微妙变化并稍微加速它们,或者通过四肢的微妙位置暗示复杂的情绪......即使猴子在骑马,它的态度和态度通过巧妙地表达骑手的某个奇特但难以形容的点,将具有卡通价值。

这些是我心目中最纯粹的漫画。 这类漫画所表达的人的形态和精神特征,一方面是奇特的,另一方面是抽象出具有共同特征的群体的普遍性,设定“类型”。 这些对象的处理方式与科学家处理其科学对象的方式非常相似。

例如,物理学家观察任何物体的复杂运动,将其分解为向心运动、等加速度运动、正弦运动等,提取其中一个,丢弃另一个,设定规则。 物理教科书中的下落体运动并不直接适用于日常生活中目睹的所有物体的下落。 只有在去除空气阻力、风的侧压和周围物体的无限影响时才应严格应用。 并且它几乎尽可能地应用于这些次要效应中最轻微的。 所以这种规则是从具体事件中抽象出来的“真实”的声明,即使是真实的,也不是日常生活中实际目睹的现象本身的标志。

当一位观察力超群的漫画家在街上或火车上看到十个人十色的世界时,会分析复杂的身体,自然会在其中找到某种普遍元素。然后,他会只抽象出那个元素,并选择最有效的方式来主要表达它。 表达的方法可能是“艺术”,但把握这个元素的方法接近于“学习”的方法。

当一位观察力超群的漫画家在街上或火车上看到十个人十色的世界时,会分析复杂的身体,自然会在其中找到某种普遍元素。然后,他会只抽象出那个元素,并选择最有效的方式来主要表达它。 表达的方法可能是“艺术”,但把握这个元素的方法接近于“学习”的方法。

认为科学成就只能通过分析获得,这是一个普遍但极大的谬论。 至少当一个优秀的科学家发现一个规则时,他经常使用直觉的力量。 在这种情况下,逻辑的证明和分析是稍后会添加的。 另一方面,漫画家的抽象不一定完全基于直觉。 即使你是无意识的,通过追踪直觉得到的暗示来把握某件事的途径,当然是一种分析。 因此,如果有的话,这两种心理效应在这些方面的差异是微不足道的。

漫画的目的还是一种真理。 它不一定是狭义上的直接美。 然而,当它是真的时,我认为广义上的间接美出现在那里。 科学的目的也只是“真实”。 对科学家来说,它可以同时是“美”。

漫画是真实的表达,即使它们不是真实的,这似乎是一个很好的例子,可以消除许多人对科学真理的误解。 漫画更像真实的东西而不是真实的东西,因为它们不像真实的东西,这种矛盾的说法可以应用于科学知识。

但是,因为科学主要与物质世界的现象有关,换句话说,它与与人类智慧相分离的有知识的人自己之间的谈判有关,所以科学规则是科学家的个性。是明确的和普遍的。 相反,由于漫画家的对象与人类有关,这样的分离就变得困难了,难免出现表情变成十个人十种,作者个性的气息变得高高在上的缺席。 但是,当将所有可能的漫画家视为一个群体时,将积分视为无限项的总和,以每个画家为导数,将其视为具有单一固定限制的“真实”边是否不方便?

用来宣告科学真理的语言和符号都经过提纯和提炼,每一个都有明确的含义。 换句话说,它是一个应该用有限数量的语言来解释的自然概念。 相反,作为漫画家语言的线条、点和颜色形成了一个多维的、无限的“连续体”。 因此,漫画家具有表达无法用语言表达的想法的优势。 使用工具的技巧是评估画家技巧的目标之一,但更重要的标准,应该由它来表达,当然是真实的种类和程度。 科学家描述规则的词汇的灵巧和笨拙并不一定与规则的价值成正比,这是很常见的。

反之,一个漫画家的功力似乎太差,往往与内容成反比。 那是因为该技术跳出了真正的科学领域。

从这个意义上说,我想区分高级的漫画和低级的暴力色情漫画。 宝贵的真理在那里丢失了,剩下的只是虚假和丑陋的坏品味。把这种事情的阴影放在一个纯真的孩子的头上,一定是一种罪恶感。

我不认为幽默是这里所谓的漫画的必要条件。 如果我认为的所有漫画都是幽默的,我认为这意味着真正的人类是幽默的。 同时,人们可以得出结论,幽默是一种非常严肃和悲剧性的东西。 

这段话比较深刻,我还是把原文贴出来吧:私は滑稽という事がここにいわゆる漫画の本質的条件とは考えていない。もし私の考えているすべての漫画を滑稽であるとすれば、それは畢竟人間の真その物が滑稽な分子を含んでいるという事になるだろうと思う。同時に滑稽というものは極めて真面目な悲痛なものだという結論も生れるだろう。

话虽如此,例如,我并非没有区分小米的乡村风俗画和斯坦兰的漫画。 但是当试图设定两个世界的界限时,他不知道应该将多米尔、戈雅或洛特雷克的作物放在哪个领土上。 但是,在对比极端时,我们认识到了那些致力于“美”的人和那些在狭义的美的边界内外来回奔波以忠于“真实”的人之间的区别,尤其是后者。这只是一个团体。 

当从广义的艺术科学或功利主义的价值与其他人类精神的产物相比时,很难找到将漫画视为低档的必然依据。 比较糟糕的艺术和优秀的漫画时,我感到很难。 这种感觉非常类似于阅读和比较一本祝贺报纸的小说和一部关于可怕的内疚主题的杰作。

当我看到鸟羽宗条的漫画时,那里描绘的动物群告诉我人类的苦涩。看北斋漫画,可以了解到封建社会的神秘心理。从 Hogarth 和 Dormier 那里,您可以体验隐藏在快乐阴影中的恐怖。 Heinrich Cry的神秘画作,让你感受隐藏在文明背后的灾难恶魔的气息。看着班伯里的“新兵”的照片让我哭而不是好笑。如果你看Jean Vevey的《Throwing Money》,你可以教你情绪和姿势的翻译。它们不仅仅是观众的知识,而是个人的生活体验。如果说圣贤的教义是我们衣服的正面,那么卡通作品就是它的衬里。如果前者是健胃剂,后者至少不是泻药。

在漫画中,有所谓的时事漫画。 这是出现在报纸和杂志上的主要内容。 这对于我想到的漫画来说有点无辜。 由于对有限的时间和地点的高度兴趣,它往往会破坏普遍性。 尤其是当它被用作表达作者某种特定政治和社会观点的手段时,其客观真实性明显受到限制,更容易陷入其作为标本的价值。似乎是。 但是,如果作者是一个好作家,时代和阶级的特征自然会印在那里,同时也无法记录人类普遍存在的东西。 一位古代漫画大师的作品证明了这一点。

漫画在一般绘画中的地位,与文学中的落语和俳句中的千流并无二致。从本质上讲,它可能是相似的。不过,似乎落语和仙龙身上有很多低等或淫秽的分子,实际上他们这样做是因为这些东西的作者传统上属于灵性较差的阶层。现在看来,这似乎几乎不言而喻。这不一定是出于不可避免的基本原因。否则,幽默就不能成为美学的主题。但这些问题超出了这里所说的范围。但是,我想借此机会指出,如上所述,落语和千流也有应该以意义的科学元素为中心的领域。

【落语,类似于我国的单口相声。】

附带一提,这篇短文的作者寺田寅彦是夏目漱石的徒弟(学生),而夏目漱石的孙子也是一位漫画研究者,我有他的书,你们有兴趣也可以买到那本书(的中文版)。

漫画と科学

寺田寅彦

 漫画とは何かという問に対して明確なる定義を下す事は困難であろう。また漫画とそれ以外の絵画との間に截然せつぜんたる区劃線を引く事も容易ではない。漫画家自身でもおそらく人によってこれに関する所見を異にするに相違ない。今ここで私がせっかく苦心して定義をこしらえても、それは結局甲某の定義にしかなりそうもない。それで以下に漫画として論ずるものも結局私の頭の中にある漫画というものの概念に過ぎないから、それがどれだけ普遍的であるかは私自身には分らない。 私のいわゆる漫画の対象材料となるものはほとんどすべて人間あるいは人間化されたる非人間である。猿であろうが摺子木すりこぎであろうが、それが純粋な猿や摺子木として取扱われている間は漫画の領域に這入はいり得ないように思われる。次にその対象の見方および取扱いの上に如何なる特徴があるかと考えてみると、その対象の形態的ないし心理的の現象の中である特別な部分を抽象してその部分を誇大しあるいは挙揚して表示するというのが一つの顕著な点である。例えば鼻の大きい人の鼻を普通の計測的の大きさの比以上に廓大かくだいして描いたり、喜怒の感情の発現を誇張した身振りで示すがごときは、最も月並な慣用手段である。もう少し進んだのになると、鼻や小鼻の曲線のあるデリケートな抑揚をつかまえて、これを少しアクセンチュエートする事によって効果を挙げ、あるいは手足の機微な位置によって複雑な感情を暗示するものもある。猿が馬に乗っているにしてもその姿勢なり態度なりが、乗馬者のある特異な、しかし言葉では云い表わせない点を巧みに表わす事によって、漫画としての価値がきまるように思う。 以上のようなものは、私の考えている漫画の中で最も純粋なものである。そうしてこの種の漫画によって表現された人間の形態並びに精神的の特徴は、一方において特異なものであると同時に他方ではその特徴を共有する一つの集団の普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する事になる。こういう対象の取扱い方は実に科学者がその科学的対象を取扱うのと著しく類似したものである。 例えば物理学者があらゆる物体の複雑な運動を観察して、これを求心運動、等加速運動、正弦運動などに分解してその中の一つを抽出し他を捨象する事によって、そこに普遍的な方則を設定する。物理学教科書にある落体運動は日常生活において目撃するあらゆる物体の落下にそのまま適用するものではない。空気の抵抗や、風の横圧や、周囲の物体より起る不定な影響を除去した時に始めて厳密に適用さるべきものである。そしてこれらの第二次的影響の微少なる限り近似的に適用するものである。それでこの種の方則は具体的事象の中から抽象によって取り出された「真」の宣言であって、それが真なるにもかかわらず、実際に日常目撃する現象その物の表示ではない。 優れた観察力をもった漫画家が街路や電車の中で十人十色の世相を見る時には、複雑な箇体が分析されて、その中のある型の普遍的要素が自ずから見出される。そしてその要素だけを抽象し、それを主として表現するために最も有効な手段を選ぶのであろう。その表現の方法は「術」であるかもしれないが、この要素をつかみ出す方法は「学」の方法に近いものである。 科学上の業績は単に分析にのみよって得られるものと考えるのは、有りふれた、しかし大なる誤謬である。少なくも優れた科学者が方則を発見したりする場合には直感の力を借りる事は甚だ多い。そういう場合には論理的の証明や分析はむしろ後から附加されるようなものである。また一方において漫画家の抽象は必ずしも直感のみによるとは考えられない。たとえ無意識にしろ、直感で得た暗示をだどって確かなある物を把握するまでの道筋は確かに一種の分析である。それでこれらの点における両者の精神作用の差違はあっても僅少なものである。 漫画の目的とするところはやはり一種の真である。必ずしも直接な狭義の美ではない。ただそれが真であることによって、そこに間接な広義の美が現われるように思う。科学の目的もただ「真」である。そして科学者にとってはそれが同時に「美」であり得る。 漫画が実物に似ていないにかかわらず真の表現であるという事は、科学上の真というものに対する多数の人々の誤解をとくために適切な例であるように見える。漫画が実物と似ない点において正に実物自身よりも実物に似るというパラドクシカルな言明はそのままに科学上の知識に適用する事が出来る。 ただ科学は主として物質界の現象に関係しているために、換言すれば人間の能知と切り離された所知者自身の間の交渉に関しているために、科学上の方則は科学者の個性と切り離され、従ってその表現は単義的普遍的なものになっている。これに反して漫画家の対象は人間に関係したものであるために、このような分離が困難になり、表現は十人十種になって作者の個性の香が高くなるのは止むを得ない。しかしあらゆる可能な漫画家を一団として見る時には、各画家を微分とした無限項の和としての積分は渾然たる一つの定まった極限値を有する「真の」一面と考えるに不都合があるだろうか。 科学上の真を言明するために使用する言語や記号は純化され洗煉されて、それぞれ明確な意味をもっている。換言すれば有限な数の言語で説明し尽さるべき性質の概念である。漫画家の言語たる線や点や色はこれに反して多次的な無限の「連続コンチニウム」を形成するものである。それで漫画家は言語では到底表わす事の出来ない観念の表現をするための利器を持っている。その利器の使い方の巧拙はその画家の技能を評価する目標の一つになるが、それよりも重大な標準は、それによって表わすべきものの、真の種類や程度にある事は勿論である。科学者がその方則を述べる字句の巧拙や運算の器用不器用は必ずしもその方則の価値と比例しないのと一般であろう。 むしろあまりに悪達者な漫画家の技巧がその内容と反比例を示す場合も少なくないように見える。それは技巧が跳躍して科学的真の圏外に逸出するためである。 こういう意味で私は本当の漫画と低級なポンチあるいはくすぐり画とを区別したい。後者の実例は場末の玩具屋おもちゃやの店頭で見られる安絵本のポンチなどがそれである。そこには尊い真は失われて残るものは虚偽と醜陋しゅうろうな悪趣味だけである。美しい子供の頭にこういうものの影を宿す事は一つの罪悪であらねばならぬ。 私は滑稽という事がここにいわゆる漫画の本質的条件とは考えていない。もし私の考えているすべての漫画を滑稽であるとすれば、それは畢竟人間の真その物が滑稽な分子を含んでいるという事になるだろうと思う。同時に滑稽というものは極めて真面目な悲痛なものだという結論も生れるだろう。 そうはいうものの私は例えばミレーの田園風俗画とスタンランの漫画との間に或る区別を感じない訳ではない。しかしその二つの世界の限界を定めようとする時にドーミエーやゴヤやロートレークの或る作物をいずれの領分に配していいかを決定するのに迷うのである。ただ極端と極端とを対照する時に、「美」に専らなものと、「真」に忠なるがために狭義の美の境界線の内外に往還するものとの区別を認めて、後者を特に一団として考えるに過ぎないのである。 他の人間精神の所産物と比較して広義の芸術的科学的ないし功利的の価値を考えてみたときに、特に漫画を低級なものと考えるべき必然な根拠を見出す事は困難である。劣悪な美術と優秀な漫画を比較してみた時には困難を感じさせられる。その感じはちょうどおめでたい新聞小説と恐ろしい罪悪を主題とした傑作とを読み比べる時のそれとよく似たものである。 私は鳥羽僧正の戯画を見る時に、そこに描かれた動物の群から人間の痴愚をさしつけれれる。北斎漫画を見る時に封建時代の社会の不思議な心理を教えられる。ホガースやドーミエーからは享楽の影に潜む恐ろしさを味わわされる。ハインリヒ・クライの怪奇画からは文明の背後に隠れた災厄の悪魔の呼吸を感じさせられる。バンベリーの「新兵」の絵を見ていれば可笑おかしいよりは泣きたくなる。ジャン・ヴェヴェーの「銭投げ」を見れば感情と姿勢の対訳を教えられる。そしてそれらは単に見る人の知識となるばかりでなく、一つ一つの生きた体験になるのである。もし聖賢の教えがわれわれの衣服の表になるものであれば、漫画の作品はその裏地の一片にはなる。前者が健胃剤ならば後者は少なくも下剤ぐらいにはならない事はない。 漫画と称すべきものの中でいわゆる時事漫画と称するものがある。新聞雑誌に出るのは主としてこれである。これは私の考えている漫画としてはやや純粋を欠くものである。時代と場所の限られたる範囲の興味が高唱されているだけに普遍性を損じやすい傾向がある。ことにそれが作者のある特別な政治的社会的の意見を表明する手段として使用されている場合には、その客観的真実性は著しく限定されて、むしろ一つの標本としての価値に堕落しやすいように思われる。しかしその作者が優れた作者であれば、自然にそこに時代や階級の特性が印象されていると同時に、人間というものに普遍な何物かが記録されない訳には行かないであろう。古来の漫画の名家の作品は正にこれを証明する。 一般絵画に対する漫画の位置は、文学に対する落語、俳句に対する川柳のそれと似たところがないでもない。本質の上からはおそらく同じようなものであり得ると思われる。ただ落語や川柳には低級なあるいは卑猥ひわいな分子が多いように思われており、また実際そうであるのは、これらのものの作者が従来精神的素養の乏しい階級に属していたためにそうなったので、それは必ずしも必然な本質的な理由あっての事ではないという事は、ほとんど自明的な事と思われる。そうでなかったらユーモアーというものが美学の対象などになりようはない。しかしそのような問題はここに云うべき範囲外である。ただ落語や川柳にも前述のごとき意味の科学的要素を中心として発展し得べき領域のある事をこの機会に注意しておきたいと思うのである。

(大正十年三月『電気と文芸』)

底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店   1997(平成9)年4月4日発行底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店   1985(昭和60)年7月5日第3刷発行初出:「電気と文芸 第二巻第三号」   1921(大正10)年3月※初出時の署名は「藪柑子」です。入力:Nana ohbe校正:松永正敏2006年7月13日作成2016年2月25日修正

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